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[戰史] 【早期近代戰史20之2 】關原之戰(中)

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    本帖最後由 eric955168 於 2025-10-23 02:35 編輯

    原文——幾小時就打完的大決戰:一戰定天下的「關原之戰」(中)
    【わずか数時間で終わった決戦:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(中)】

    2024.09.05  走進日本

    1.jpg
    標題圖片:關原合戰圖屏風。這是創作於江戶時代的一對屏風中的右側屏風,從戰場南邊的視角,描繪了開戰當日兩軍激戰的情景,對人物、甲胄等都描繪得極其細緻[渡邊美術館提供(鳥取市)]
    【バナー写真:渡辺美術館(鳥取市)所蔵の関ケ原合戦図屏風(江戸時代、右隻)。合戦当日の様子を戦場の南方面から描写したもの。人物.甲冑などが丁寧に表現されており、右隻には、開戦間もないころの両軍の激突の様子などが描かれている。】

    關原之戰,是安土桃山時代,慶長5915(西元16001021日),以美濃國關原(歧阜縣關原町)為主戰場展開的一場野戰。有著「一戰定天下」之稱。德川家康率領的東軍戰勝石田三成統帥的西軍,德川家康於1603年開創江戶幕府。本次連載將對三成的誤判導致意外慘敗和東軍的勝因進行解說。

    【関ヶ原の戦いは、安土桃山時代の慶長5915日(西元16001021日)、美濃国関ヶ原(岐阜県関ケ原町)を主戦場として展開された野戦。「天下分け目の戦い」と呼ばれるように、徳川家康率いる東軍が石田三成率いる西軍に勝利し、家康は1603年に江戸幕府を開く。連載「中」では、予想外の惨敗に終わった三成の誤算、東軍の勝因について解説する。】

    淪為逆賊的家康|賊に転落した家康

    德川家康認為會津藩上杉景勝拒絕上洛的態度是謀反之舉,於慶長516006月,親率約57000人(關於人數眾說紛紜)大軍開始遠征會津。
    【徳川家康は、上洛を拒む会津の上杉景勝の態度を謀反とみなし、慶長5年(1600年)6月、約57000(数は諸説あり)の大軍を引き連れ会津への遠征を開始した。】

    然而724日,他在下野國小山(栃木縣小山市)帳中得知了石田三成和大谷吉繼舉兵一事。【だが724日、下野国小山(栃木県小山市)在陣中に、石田三成と大谷吉継の挙兵を知ったのである。】

    於是第2天,他中止會津征伐,讓己方眾將領軍西上。自己則暫返江戶,打算稍事停留後就去追趕西上的大軍。
    【そこで翌日、会津征伐を中止して味方の諸将を西上させた。自身はいったん江戸に戻り、すぐにその後を追いかけるつもりだったようだ。】

    然而,家康一進江戶就動彈不得了。因為局勢發生巨變。【だが、家康は江戸から動けなくなってしまう。状況が大きく変わったからだ。】

    西國的大大名毛利輝元忽然入駐大阪城,成為西軍(反家康派)盟主,不僅掌握了豐臣秀賴,還將秀賴之母澱殿和三奉行(前田玄以、長束正家、增田長盛)拉到己方陣營。五大老之一的宇喜多秀家也投向了西軍。
    【西国の大大名である毛利輝元が、いきなり大坂城に入り込んで西軍(反家康派)の盟主となり、豊臣秀頼を手中にしたうえ、秀頼の母.淀殿や三奉行(前田玄以、長束正家、増田長盛)を味方に引き入れたのである。五大老の一人、宇喜多秀家も西軍方についてしまった。】

    豐臣政權以三奉行之名,將家康的罪狀總結為《內府錯之條條》的彈劾狀,分發給諸大名。這份帶有官方色彩的文件,條理清晰地細數了家康的種種暴行,號召大名對秀賴保持忠誠。僅看這份文件的一家之言,正義確在西軍。換言之,家康淪為了亂臣賊子。
    【豊臣政権は、三奉行の名をもって家康の非道を「内府違いの条々」という弾劾状にまとめ、諸大名に配布した。公的性格をにおわせた同書には、理路整然と家康の暴虐ぶりが記され、秀頼に対する忠義が説かれていた。この書状を読む限り、正義は西軍にあった。つまり家康は、賊に転落してしまったのである。】

    如此一來,家康便開始懷疑那些站隊己方並先行出發的豐臣系大名是否真的心繫東軍(德川方)。而且,除了敵對勢力會津的上杉景勝,還有常陸的佐竹義宣等人態度不明,也可能進攻德川家的領地。當然,也需要運作拉攏多數派。對家康而言,這次確實是一個巨大的危機。
    【そうなると家康は、自分に味方して先発した豊臣系大名らが、本当に徳川方(東軍)として働くか疑心暗鬼になってきた。それに、敵対する会津の上杉景勝に加え、去就が読めない常陸の佐竹義宣などが徳川領に攻め入ってくる可能性も出てきた。もちろん、多数派工作も必要になった。まさに家康にとっては大きな危機だったのだ。】

    遲遲不到的秀忠軍|秀忠軍は間に合わず

    然而,最終結果證明家康是多慮了。己方(東軍)的先鋒隊勢如破竹,僅1日就拿下了西軍方的歧阜城。照此趨勢發展下去,反而根本用不著德川上陣,就能拿下西軍。
    【だが、結果的に家康の心配は杞憂(きゆう)に終わった。味方(東軍)の先鋒隊はすさまじい勢いで進撃し、西軍方の岐阜城を一日で陥落させたのである。逆にこのままでは、徳川なしで西軍を倒してしまう状況になった。】

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    歧阜城(歧阜市),曾經是稻葉山城,在戰國時代也是齋藤道三的居城。現在的城堡為1955年復原/PIXTA
    【かつて稲葉山城と称し、戦国時代には、斎藤道三の居城でもあった岐阜城(岐阜市)。現在の城は1955年に復興されたもの/PIXTA

    家康大驚,連忙要求先鋒隊諸將「在我到達之前,任何事由均需聽從監軍井伊直政指示」,制止他們的冒進。並於91日緊急率軍從江戶出發。大軍有32000人(眾說紛紜)。大軍沿東海道一路急行,於9日到達岡崎城,11日進入清須城。不過,在這裡,家康以感冒為由停止了進軍。大概是已經知道本應從東山道(中山道)西進的德川秀忠軍遲到了。
    【驚いた家康は、先鋒の諸将に対し、「私が出向くまで、何事も軍監の井伊直政の指図に従ってほしい」と彼らの勝手な行動を制し、急きょ91日に江戸から出立した。率いる軍勢は32000(諸説あり)。東海道を迅速に進み、9日に岡崎城、11日には清須城に入った。ただ、ここで家康は風邪を理由に進軍を止めた。東山道(中山道)から西進するはずの徳川秀忠軍が遅れていることを知ったからだろう。】

    家康率領的是雜牌部隊,而其子德川秀忠率領的則是1萬石以上的譜代大名等的精銳部隊。換言之,秀忠軍是德川的主力。秀忠軍的使命是壓制包括真田昌幸的上田城在內的信濃一帶。按原計劃,他應該是完成這一使命後,再率軍與家康軍合流。
    【家康が率いる兵は小身の寄せ集めで、万石以上の譜代や精鋭は息子の秀忠が率いていた。つまり、秀忠軍が徳川の主力だったのだ。秀忠軍の使命は、真田昌幸の上田城など信濃一帯を制圧すること。その上で後日、家康軍と合流する手はずになっていた。】

    但是,由於前文所述的情況,家康要求秀忠即刻西上。然而,通知秀忠的使者因洪水等原因而遲到,加上秀忠軍攻打上田城受挫,所以趕不上這場爭奪天下的大戰,已是板上釘釘。
    【しかし、いま述べた事情により、家康は秀忠に即座の西上を求めた。ところが、秀忠への使者の到着が洪水などのために遅れ、さらに秀忠軍が上田城攻めに手を焼いたことで、もはや天下分け目の合戦に間に合わないことが確実になった。】

    話雖如此,如果就此盤踞清須城,則己方先鋒隊很可能會擅自出擊,攻打退守大垣城的西軍主力。為此,入駐歧阜城的家康於14日抵達大垣城附近的赤阪軍營,與先鋒諸將匯合。
    【とはいえ、このまま清須城に居続ければ、味方の先鋒隊は、大垣城にこもる西軍主力軍に勝手に攻めかかりそうだった。このため岐阜城に入った家康は14日、大垣城近くの赤坂に着陣し、先鋒の諸将と合流した。】

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    德川家康像(德川家十六善神肖像圖《家康公》、永島孟齋作)(國立國會圖書館數字館藏)【徳川家康像(徳川家十六善神肖像図「家康公」、永嶌孟斎.作)国立国会図書館デジタルコレクション】

    投靠家康陣營的福島正則|家康方についた福島正則

    2天,一戰定天下的關原合戰打響了。【翌日は、いよいよ天下分け目の関ヶ原合戦である。】

    戰鬥的詳細過程和狀態無法從一手史料(當時的書信和日記)進行確認。【戦いの詳しい経緯や様子は一次史料(当時の手紙や日記)からは確認できない。】

    匯總描寫了合戰全貌的,全都是後世的記錄(二手史料)。不過,《關原始末記》是明曆2年(1656)儒學家林羅山、林鵞峰父子對酒井忠勝(若狹小濱城主,後來的江戶幕府老中、大老)的親身經歷彙集而成,作為史料品質優良,因此本文以此為基礎進行介紹。
    【合戦全体をまとめて描いているのは、すべて後世の記録(二次史料)なのだ。ただ、『関ヶ原始末記』は、酒井忠勝(若狭小浜城主、のちの江戸幕府老中.大老)の体験を明暦2年(1656年)に儒者の林羅山.鵞峰父子がまとめたもので、史料として比較的良質なのでこれをもとに記していく。】

    石田三成最初的想法,是以清須城和歧阜城為中心,加上犬山城和竹鼻城構築防線。清須城主福島正則是豐臣秀吉一手提拔的武將,所以三成認定他會站在西軍陣營。
    【石田三成は当初、清須城と岐阜城を中心に、犬山城や竹ヶ鼻城を加えた防衛線を考えていたとされる。清須城主の福島正則は秀吉子飼いの武将なので、西軍方につくと三成は考えていたようだ。】

    哪知這個福島正則卻做了東軍的先鋒主力,與池田輝政一起攻打起了歧阜城。更糟的是城主織田秀信(信長嫡孫)輕而易舉就將歧阜城拱手相讓。結果,不單歧阜城,就連犬山城和竹鼻城也悉數陷落。
    【ところが、その正則が逆に東軍先鋒の主力として池田輝政と共に岐阜城を攻め立てたのである。しかも、城主の織田秀信(信長の嫡孫)はあっけなく城を明け渡してしまった。結果、岐阜城だけでなく、犬山城と竹ヶ鼻城も陥落した。】

    這是重大誤判。三成被迫改變作戰計畫,這次改為死守大垣城牽制東軍,其間,讓西軍總大將毛利輝元和豐臣秀賴帶兵出大阪城,馳援大垣城。近年來發現,關原附近曾存在著一座巨大的城堡(玉城),所以有新觀點認為,三成的打算是讓毛利輝元和豐臣秀賴入駐此城。
    【これは大誤算だった。作戦の変更を迫られた三成は、今度は大垣城にこもって東軍を引き付け、その間に西軍の総大将である毛利輝元と豊臣秀頼を大坂城から出馬させる方針をとったとされる。近年、関ヶ原の近くに巨大な城(玉城)の存在が判明し、三成はこの城に輝元と秀頼を入れる予定だったという新説が出ている。】

    三成大概認為「如果輝元和秀賴共率大軍親征前線,那麼東軍的豐臣系大名就會喪失戰意」。【三成は「大軍を引き連れた輝元が秀頼と共に来臨すれば、東軍の豊臣系大名は戦意を喪失する」と判断したのだろう。】

    於是,98日,三成離開佐和山城,入駐大垣城。同時,在10多公里的後方,關原周邊修築陣地,讓諸大名分別屯兵於此。正如前文所述,三成似乎也打算讓輝元和秀賴也在這裡安營佈陣。
    【こうして三成は98日、佐和山城から大垣城へ入った。同時に、十数キロ後方の関ヶ原周辺に陣地を構築し、諸大名を分置した。今述べたように輝元と秀頼もここに陣を敷いてもらう予定だったらしい。】

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    1535年修建的大垣城(歧阜縣大垣市),關原之戰,西軍石田三成的大本營。1936年被指定為國寶,45年燒毀。1959年復原(時事)
    1535年に築城され、関ヶ原の戦いで西軍.石田三成の本拠地となった大垣城(岐阜県大垣市)。1936年に国宝に指定されたが、45年の戦火で焼失。59年に復元された/時事】

    另一方面,作為家康,自然是想避開圍城戰。因為如果在攻城上耗費太多時日,則輝元和秀賴必定會率軍從大阪城前來支援。於是,家康走了步暗棋。
    【一方、家康としては籠城戦は避けたい。城攻めで日を送れば、大坂城から輝元や秀頼がやって来るからだ。そこで、秘策を打ったという。】

    他齊集麾下諸將召開軍事會議,決定「拿下三成的大本營佐和山城,一鼓作氣攻打大阪城」。這一方針遭洩露,被西軍間諜知曉,自然也傳到三成耳中。當然,這也是家康的目的。
    【諸将を集めて軍議を開き、「三成の本拠地の佐和山城を落とし、一気に大坂城へ攻め寄せる」と決めたのである。この方針は、西軍の間諜に漏れ、三成の知るところとなった。もちろんそれが家康の狙いだった。】

    三成自亂陣腳,緊急決定在關原一帶擺開防線,阻止東軍前進。關原這一地名中的「關」,來源於關卡。這裡曾經是有一座關卡的。關原一帶是交通要地,地形險要,一夫當關萬夫莫開。只要控制住這裡,東軍就無法西進。
    【焦った三成は、急きょ、関ヶ原一帯に防衛ラインを敷いて、東軍の進軍を食い止めることにした。関ヶ原の地名の「関」は、関所に由来する。かつてここに関所があったのだ。関ヶ原一帯は交通の要衝地で、ここを押さえてしまえば西へ進めない地形になっていた。】

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    202010月開館的「歧阜關原古戰場紀念館」的瞭望室可將大戰的舞臺盡收眼底(時事)202010にオープンした「岐阜関ケ原古戦場記念館」の展望室からは、合戦の舞台を一望できる/時事】

    井伊直政「搶跑」|井伊直政の「抜け駆け」

    如是,914日夜,暴雨滂沱,三成在夜雨的掩護下,率西軍悄悄離開大垣城。三成不燃火把,鉗馬銜枚,避開東軍耳目,向關原迂迴進軍。據傳,西軍離開大垣城的確切情報傳到家康處,已是第2天早上2點左右。
    【かくして914日夜、豪雨の中、闇に紛れて三成率いる西軍は大垣城からひそかに離脱する。三成は松明を焚せず、馬の口をしばって音を消させ、東軍に気づかれないよう迂回して関ヶ原へ向かった。大垣城から西軍が離脱したという確報が家康の耳に入ったのは、翌日の午前2時頃だったという。】

    於是,家康也下令全軍出擊。如此,東軍也冒著大雨渾身泥濘地奔赴關原。【そこで家康も、全軍に進撃を命じた。こうして東軍も雨の中、泥まみれになって関ヶ原へ急いだ。】

    率先打響第一槍的人,是東軍的井伊直政,德川四天王之一。他是天正31575前後才投身家康麾下的新人,卻因戰功彪炳而青雲直上。然而,此舉卻是違反了軍令
    【戦いの火ぶたを切ったのは、徳川四天王の一人とされた東軍の井伊直政だった。天正3年(1575年)頃に家康に臣従した新参者だが、華々しい戦功を上げ大身に成り上がった。ただ、これは軍令違反だった。】

    大戰第一個出馬的大將,原定人選是福島正則。而且,最前線列陣的藤堂高虎、加藤嘉明、細川忠興、黑田長政都是豐臣系大名。這群人中唯一一個德川譜代便是直政。
    【合戦での先手一番は、福島正則と決められていた。さらに藤堂高虎、加藤嘉明、細川忠興、黒田長政といった豊臣系大名が最前列に陣を敷いていた。そのグループに唯一加わっていた徳川譜代が直政だったのだ。】

    一般認為東西兩軍完成佈陣是在15日的上午67點之間。雨倒是停了,卻又起了大霧。兩軍對陣,僵持不下。在這情況下,有一隊50騎左右的騎兵試圖繞過前鋒福島正則隊而衝向敵陣。那便是井伊直政的人馬。
    【東西両軍が布陣を終えたのは15日の午前6時から7時の間だったとされる。雨はやんだが霧が立ちこめていた。両軍は、対陣したままにらみ合っている。そんななか、先手の福島正則隊の脇を50騎ほどの騎馬隊がすり抜けようとした。井伊直政勢だった。】

    福島隊的可兒才藏發現了井伊軍的小動作,怒吼道:「斷不會放爾等通行。」於是,井伊直政回答:「這位是松平忠吉(家康的四子)大人,今日是大人首戰,想去前方探知敵情,瞭解戰事。」便繼續向前推進,然後衝進了與之對峙的西軍宇喜多秀家陣中(1.7萬人)。
    【見とがめた福島隊の可児才蔵が「ここから先は通すわけにはいかない」と怒鳴った。すると直政は「こちらは松平忠吉(家康の四男)様。今日が初陣なので、戦を知っていただくため物見に来た」と答え、そのまま先へ進むと、対峙する西軍の宇喜多秀家(17000)隊へ突入したのである。】

    這是明目張膽的搶跑搶功。【明らかに抜け駆けだった。】

    話雖如此,大戰結束後,福島正則並沒有投訴。【にもかかわらず、戦いの後、福島正則から苦情は出なかった。】

    井伊直政手下有3000兵馬,但他將大部人馬留在原地,聲稱查探敵情,僅帶著50騎前來。因此,正則大概是以為直政因為濃霧而偶遇敵襲,開戰是迫不得已之舉。另外,近年來也有學者質疑直政和忠吉打響第一槍的說法,但本文還是採用現在流行的說法。
    【直政は3000の兵を連れていたが、本隊は置いたまま物見と称し、たった50騎でやって来た。このため正則は、濃い霧のため偶発的に敵と遭遇し、やむを得ず戦闘行為に至ったと判断したのかもしれない。なお近年、直政と忠吉が一番槍を入れたという説に疑問を唱える研究者もいるが、今回は通説に従っておく。】

    無論如何,家康之子和德川譜代家臣點燃了戰火,家康非常滿意。【ともかく、家康の子と徳川譜代の臣が合戦の口火を切ったので、家康は上機嫌だったという。】

    私通家康的毛利軍|家康に内通していた毛利方

    如此,東西兩軍的全面對決拉開帷幕。不過,家康的政治運作顯然奏效,多數西軍大名只在陣前作壁上觀,西軍8萬人(眾說紛紜),實際下場的不足半數。
    【こうして東西両軍の全面対決が始まったが、家康の政治工作が功を奏し、西軍大名の多くが陣地で傍観を決め込み、西軍8万(諸説あり)のうち戦ったのは半数以下だった。】

    佈陣南宮山的毛利軍16000人也是旁觀的部隊之一。毛利輝元是西軍的總大將,但當天卻穩坐大阪城,毛利軍的統帥是輝元的養子秀元。
    【南宮山に布陣した毛利軍16000も傍観した部隊の一つだ。毛利輝元は西軍の総大将だったが、当日は大坂城におり、毛利軍を率いていたのは輝元の養子秀元だった。】

    事實上秀元是有戰意的,可惜打頭陣的吉川廣家(輝元的表弟)不論怎麼催促,都按兵不動。當然,石田三成也時不時派人來催促「望參戰」。秀元很無奈,只能跟三成的使者苦笑:「現在我手下的兵正在吃飯。」當然,我認為這段故事是後人編的……。
    【実は秀元は戦おうとしたのだが、先陣の吉川広家(輝元の従弟)がいくら催促しても動かなかったのである。当然、石田三成からは「戦いに加わってほしい」という催促がたびたび届く。閉口した秀元は、「いま兵に飯を食わせている最中だ」と三成の使者に苦しい弁明をしたという。もちろん後世の作り話だと思うが……。】

    因為毛利軍一直按兵不動,所以在一旁佈陣的長束正家和長宗我部盛親也心生疑竇,並未參戰。結果,部署在南宮山的30000多士兵都沒用上。
    【毛利軍が動かなかったので、近くに陣を敷いた長束正家や長宗我部盛親も疑心暗鬼となって戦いに参加しなかった。結果、南宮山にいた3万以上の兵は用をなさなかった。】

    廣家早已私通家康了。【広家はすでに家康に内通していたのだ。】

    在此之前,廣家知道了三成要推舉輝元做大將舉兵起事。於是,他努力勸阻輝元不要同意,但輝元還是入駐了大阪城。
    【これより前、広家は三成が輝元を大将に担いで挙兵することを知った。そこで輝元に同意しないよう説得しようとしたが、輝元は大坂へ入ってしまった。】

    於是,廣家就通過友人黑田長政向家康表明心跡:「這是毛利的重臣安國寺惠瓊一人之計,輝元本人毫不知情。」家康相信了他的話。
    【そこで広家は、親しい黒田長政を通じて家康に「これは毛利の重臣.安国寺恵瓊(あんこくじ.えけい)の計略であり、輝元本人は一切関知していない」と釈明した。家康はその言葉を信じた。】

    之後,廣家一邊暗中聯繫德川方,一邊跟隨西軍行動,直到關原合戰的前日,他才跟主將秀元及毛利家一干重臣坦白,自己與家康密通已久。
    【以後、広家は徳川方とひそかに連絡を取りつつ、西軍として行動し、関ヶ原の戦いの前日になって、家康に内通している事実を主将の秀元や毛利家の重臣たちに打ち明けたとされる。】

    商量的結果,繞過輝元直接向家康方送出人質,成功從德川方獲得了按有血手印的起請文。文書內容是「若能明晰毛利氏之忠節,可保領地無虞。」所以,廣家用在戰場上袖手旁觀的行動向家康表了個忠心。
    【相談の結果、輝元の許可なく家康方に人質を出し、徳川方からは「毛利氏の忠節が明らかになれば本領を安堵する」という血判付きの起請文を獲得することに成功。だから広家は、戦場での傍観という行動で家康に忠節を示したのだ。】

    不過,雖然參戰將士不足半數,西軍依然驍勇善戰。為此,最初的幾小時一直處於膠著狀態。這想來讓家康也坐立不安了。如果一直觀戰的毛利等西軍諸將看到這樣的形勢,而出手攻打東軍,那東軍必然出局。
    【ただ、戦っているのは半数以下だったが、西軍はすさまじい戦いぶりを見せた。このため、最初の数時間は膠着状態になった。これには家康も焦ったことだろう。もし傍観している毛利などの西軍諸将が、この形勢を見て東軍に攻撃を仕掛けてきたらアウトである。】

    於是,對於早就談好叛變卻遲遲未動的松尾山上的小早川秀秋,心裡七上八下的家康怒吼道「豎子竟敢誆騙於我」(《朝野舊聞裒槁》),命人向松尾山開槍射擊。俗稱「問鐵砲」(催促表態的槍砲——譯注)。
    【そこで裏切りを約束していたのに動かない松尾山の小早川秀秋に対し、気を揉んだ家康は「せがれ(秀秋)めに計られた(だまされた)か」(『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)』)と怒り、松尾山に鉄砲を撃ち込むよう命じた。俗にいう問鉄砲(といてっぽう)である。】

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    小早川秀秋像(《肖像集》權中納言秀秋,栗原信充繪)(國立國會圖書館數字館藏)【小早川秀秋像(『肖像集』「権中納言秀秋」、栗原信充.画)国立国会図書館デジタルコレクション】

    一直遲遲沒法決定站隊的秀秋,因為「問鐵砲」而衝下松尾山,直接攻入眼前己方陣營的大谷吉繼陣中。受此影響,赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脅阪安治也紛紛倒戈,大谷隊被破,西軍就此走向分崩離析。
    【去就を決めかねていた秀秋だったが、問鉄砲によって松尾山を駆け下り、眼下にいる味方.大谷吉継の陣へ攻め入った。これにつられて赤座直保.小川祐忠.朽木元綱.脇坂安治も味方に攻めかかり、大谷隊が壊滅したのを機に、西軍は瓦解したのである。】

    只不過近些年出現了新觀點,認為小早川秀秋從最初就是作為東軍參戰的,還引發了爭論。【ただ、近年は小早川秀秋は最初から東軍として戦っていたという新説が登場、その可否を巡って論争になっている。】

    無論如何,短短幾小時,「一戰定天下」的關原之戰以東軍的勝利告終。【いずれにせよ、わずか数時間で「天下分け目」の関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わったのである。】

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    關原之戰使用了大量火繩槍,名將因槍擊出現傷亡。圖中為火繩槍復原品。原品20014月發現於關原町居民家中,全長2.3m/時事
    【関ヶ原の戦いには多くの火縄銃が投入され、名将も銃撃により死傷した。写真は20014月に関ケ原町の民家で見つかった全長2.3mの火縄銃を復元したもの/時事】

    【參考文獻】

    ·『秀吉は「家康政権」を遺言していた』(《秀吉遺言稱「家康政權」》)(高橋陽介.著,河出書房新社)
    ·『新視点 関ヶ原合戦 天下分け目の合戦の通説を覆す』(《新視點 關原之戰 顛覆關於定天下之戰的傳統觀念》)(白峰旬.著、平凡社)
    ·『徳川家康の決断 桶狭間から関ヶ原、大坂の陣までの10の選択』(《秀吉遺言稱「家康政權」》)(本多隆成.著、中公新書)
    ·『人物叢書 徳川家康』(藤井讓治.著、吉川弘文館)
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