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[戰史] 【早期近代戰史20之3 】關原之戰(下)

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    本帖最後由 eric955168 於 2025-10-23 02:47 編輯

    原文——東西分仕、兩邊下注的大名家族,以及石田三成的末日:考察一戰定天下的「關原之戰」(下)
    【親子兄弟が東西に分かれた大名家、そして三成の最期:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(下)】

    2024.11.11  走進日本
    河合敦

    1.jpg
    標題圖片:渡邊美術館(鳥取市)收藏的關原合戰圖屏風(江戶時代,左扇)。從戰場南面視角描繪了大戰當日的狀況。左扇描繪的是東軍力壓西軍的戰鬥場景
    【バナー写真:渡辺美術館(鳥取市)所蔵の関ケ原合戦図屏風(江戸時代、左隻)。合戦当日の様子を戦場の南方面から描写したもので、左隻には東軍が押し気味に戦闘を展開している様子などが描かれている。】

    關原之戰,是安土桃山時代,慶長5915(新曆16001021日),以美濃國關原(歧阜縣關原町)為主戰場展開的一場野戰。有著「一戰定天下」之稱。德川家康率領的東軍戰勝石田三成統率的西軍後,家康於1603年開創了江戶幕府。作為最終回的本篇將對父子兄弟分仕東西陣營、彼此兵戎相見的大名家族,以及三成的結局進行介紹。

    【関ヶ原の戦いは、安土桃山時代の慶長5915日(新曆16001021日)、美濃国関ヶ原(岐阜県関ケ原町)を主戦場として展開された野戦。「天下分け目の戦い」と呼ばれるように、徳川家康率いる東軍が石田三成率いる西軍に勝利し、家康は1603年に江戸幕府を開く。最終回では、親子兄弟が東西に分かれて戦った大名家や三成の最期について紹介する。】

    一家興亡在此一戰|お家の存亡を懸けた戦い

    慶長51600915日爆發的關原之戰,僅數小時就以德川家康(東軍)的勝利告終。不過,家康的勝利也不是一開始就早早注定的。所以,對於各路大名而言,站隊東軍還是西軍,是事關家族存亡的大事。
    慶長5年(1600915日に起こった関ヶ原の戦いは、わずか数時間で徳川家康(東軍)の勝利となった。ただ、当初から家康が勝つと決まっていたわけではない。だから各大名にとっては、東西いずれに味方するかは、お家の存亡を懸けた一大事であった。

    由此,各家內部或多或少都應當有過劍拔弩張的對峙。一旦站錯隊,家族命運就會萬劫不復。為此,各持己見,寸步不讓,家族內部或君臣之間的對立和分裂頻繁上演。
    【ゆえに、どの家中でも多かれ少なかれ、真剣な話し合いがもたれたはず。負けるほうにつけば、取り返しがつかないことになる。このため、己の信じるところを譲らず、一族や家臣が対立・分裂する事態が頻発した。】

    著名的軼事之一,當屬真田一族的「犬伏決裂」。【有名な逸話としては、真田一族の「犬伏の別れ」がある。】

    信州上田城主真田昌幸雖然跟隨家康參與了會津征伐,但在下野國犬伏(栃木縣佐野市),收到石田三成密信規勸後,他便找來長子真田信幸(信之)和次子真田信繁(幸村)磋商。
    【信州上田城主・真田昌幸は家康の会津征伐に従軍していたが、下野国犬伏(栃木県佐野市)で石田三成の密書を受け取り勧誘を受けると、長男の信幸(信之)と次男の信繁(幸村)と話し合った。】

    真田昌幸和三成都娶了宇田賴忠的女兒為妻,是連襟。真田信繁娶了大谷吉繼的女兒為妻,而大谷吉繼也是站隊三成的。另一方面,真田信幸的妻子是家康的養女小松姬(本多忠勝之女)。於是,他們決定真田昌幸與次子信繁站隊西軍,長子信幸站隊東軍。如此一來,不論何方得勝,都能為真田家保留一系血脈。
    昌幸は、三成とは同じ宇田頼忠の娘を妻とする義兄弟であり、信繁は三成に加担した大谷吉継の娘を妻としていた。一方、信幸の妻は家康の養女・小松姫(本多忠勝の娘)だった。このため昌幸と信繁は西軍に、信幸は東軍につくことに決め、どちらが負けても真田家を残す道を選んだと思われる。

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    和歌山縣九度山町高野山真言宗寺院,善名稱院。據傳關原之戰後,真田昌幸和信繁被軟禁在這裡的草庵(尚無定論),又名真田庵(PIXTA
    和歌山県九度山町にある高野山真言宗の寺院.善名称院。関ヶ原の戦い後、蟄居となった真田昌幸.信繁の草庵跡と伝えられ(諸説あり)、真田庵とも呼ばれる/PIXTA

    而且,也有一些大名雖然站隊東軍,領地得到保障,但或許是為了家族存續,又做了一些小動作。比如加賀的前田家。
    なお、東軍に味方して本領は安堵されたものの、家の存続のためか、怪しい動きをした大名もいる。たとえば加賀の前田家である。

    關原之戰前,前田利家去世後,繼承人前田利長迫於家康的威懾,將母親芳春院送到了江戶當人質。關原之戰時,也是從一開始就旗幟鮮明地站隊德川(東軍)一方。
    関ヶ原の合戦前に前田利家が亡くなると、跡継ぎの利長は、家康の威光を恐れて母の芳春院(まつ)を江戸に人質に差し出した。関ヶ原合戦でも最初から徳川(東軍)への加担を表明している。

    然而,前田利長的弟弟,能登七尾城主(22.5萬石)前田利政,卻從東軍叛投到了西軍。最初,利政跟隨其兄進攻山口正弘(西軍)的大聖寺城,但當利長受家康之命出兵美濃時,利政卻並未同行,轉頭回了自己的領地。
    しかし、利長の弟で能登七尾城主(225000石).利政は、東軍から西軍に寝返ったのである。当初、利政は兄に従い山口正弘(西軍)の大聖寺城を攻撃していたが、利長が家康から美濃出兵を命じられると、同行せずに帰国してしまう。

    原因眾說紛紜。有說可能是收到三成的密信而被策反,也有說是因為妻子在大坂當了西軍的人質,所以沒法繼續跟隨東軍。但很有可能是前田一族事先有過商議,怕萬一西軍獲勝,至少還能留下能登前田家(分家),所以決定兩邊站隊。
    三成の密書を受け取り寝返ったとか、妻が大坂で西軍の人質になったので東軍に加担できなかったなど諸説あるが、おそらく西軍勝利の場合に備えて、最悪でも能登前田家(分家)は残るよう、前田一族で話し合って別行動をとった可能性がある。

    果不其然,戰後利政雖然被貶為平民,沒收封地俸祿,卻依然在利長拼死謝罪求饒之下被免除一死,在京都度過餘生。此外,利政的領地全部轉封給其兄利長,也就是說前田一族的領地絲毫沒有減少。而且,利長還給了利政之子前田直之1.1萬石的食祿,之後,直之一系作為前田土佐守家,世代侍奉前田宗家。
    案の定、戦後利政は改易されたが、利長の懸命な謝罪で死一等を減ぜられ、京都で余生を送った。また、利政の領地はすべて兄の利長に与えられたので、前田一族としては領地は減らなかった。さらに利長は利政の子.直之に11000石を与え、以後、この家は前田土佐守家として代々前田本家を支えていくことになった。

    以志摩國為大本營,以「九鬼水軍」著稱的九鬼家,其父九鬼嘉隆也曾站隊西軍,死守鳥羽城。其子九鬼守隆得知此事後,向家康請命,前去圍攻鳥羽城。形成父子分屬東西,陣前對峙的狀況。不過,此戰並未真正兵戎相見,而是拖延瞞混度日,關原之戰以家康勝利落幕後,嘉隆秘密出城,行蹤不明,不過最終還是切腹自盡。
    志摩国を本拠とする九鬼水軍で有名な九鬼氏は、父の嘉隆が西軍に加担して鳥羽城にこもった。これを知った子の守隆は、家康の許しを得て鳥羽城を包囲。父子で東西に分かれて争う状況になった。ただ、真剣に戦った形跡はなく、だらだらと日を送り、関ヶ原の戦いが家康の勝利に終わると嘉隆は城から行方をくらまし、やがて切腹して果てた。

    另一方面,守隆從關原之戰前就對西軍周邊各部展開積極進攻,向家康表明忠心。最後,考慮到嘉隆主動引責自盡,以及守隆屢立戰功,論功行賞後,九鬼家增封2萬石,成為5.5萬石的大名。
    一方、守隆は関ヶ原合戦前から積極的に西軍方の周辺諸将を攻撃し、家康の心証を良くした。結果、嘉隆が潔く責任をとったことや守隆の戦功が考慮され、論功行賞で九鬼氏は2万石を加増され55000石の大名となったのである。

    矢志不渝的三成|最後まで志を失わなかった三成

    話說,關原一戰西軍潰敗後,大將石田三成逃向伊吹山方向,最終與家臣分道揚鑣單獨行動。不過,最後在徹底的追殺殘部行動中,被曾經的友人田中吉政擒獲,帶去了家康所在的大津。
    さて、関ヶ原の戦いで西軍が崩れると、大将の石田三成は伊吹山方面に逃亡し、やがて家臣と別れて単独で動いた。だが結局、徹底的な残党狩りによって友人でもあった田中吉政に捕縛されてしまい、家康のいる大津へ連行された。】

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    石田三成(石田治部少輔三成)像(摘自《關原之戰繪卷》,國立國會圖書館數位館藏)【石田三成(石田治部少輔三成)像(『関ヶ原合戦絵巻』より)国立国会図書館デジタルコレクション

    雖是後世編纂的資料,江戶中期的《常山紀談》中記載到,負責監視三成的本多正純斥責道:「你理應輔佐年幼無知的秀賴大人開創一世太平,卻掀起無名戰火,如今這般恥辱正是你的報應。」不料三成理直氣壯地回答他:「我自然是覺得德川殿下覆滅於天下有益,才挑起戰火。只恨叛臣賊子負我,輸了這必勝的一戰。氣運衰竭之時,源義經也難免一死。我這一敗,或許就是天數吧。」
    後世の編纂資料だが、江戸中期の『常山紀談』によると、三成の監視役であった本多正純が「年若く分別がつかない秀頼様を導いて太平の世をつくるべきなのに、由なき戦などを起こしたから、あなたはこんな恥辱を受けることになったのだ」となじったところ、三成は「徳川殿を滅ぼすことがよかれと考えて戦を起こしたが、裏切り者たちによって勝つべき戦いに負けてしまった。運も尽きれば源義経さえも殺されてしまうもの。私が敗れたのは天命であろう」と悪びれずに答えたという。

    正純道:「明智的大將當審時度勢。可你不知眾武將已有二心,輕啟戰端,且落敗也不自盡,甘當階下囚。豈不可笑。」
    正純は「智将は人情を測り、時勢を知るという。が、あなたは武将たちが同心しないのも知らずに、軽々しく戦を起こし、しかも敗れたあと自害もせずに捕縛された。いったいどういうことか」と述べた。

    三成聽了後,怒斥道:「你對武略毫無所知。切腹以保不死於他人之手,實屬匹夫所為,不足掛齒。石山橋之戰敗北,賴朝也曾藏身樹洞。賴朝鴻鵠之志,爾等燕雀焉能得知?與你談大將之道,無異與夏蟲言冰。某已無話可說。」之後,便再無一言。
    これを聞いた三成は怒り、「おまえは武略というものを全く知らない。腹を切って他人に殺されないようにするのは、葉武者(はむしゃ=取るに足らない武者)の所業である。石橋山の戦いで敗れた頼朝も、木のうろに隠れていた。そんな頼朝の気持ちなどおまえは想像すらできぬはず。大将の道を語っても、おまえには理解できない。もう話すことはない」と言うと、以後は二度と言葉を発しなかったという。

    只不過在見家康時,家康寬慰他:「此事自古便有,實在無須羞恥。」三成聞言心情大好,說:「天命如此,某亦無話可說。要殺要剮悉聽尊便。」家康聞言嘆道「有大將之風。」
    ただ、家康と対面した際、「こうしたことは昔からあるのだから、決して恥じる必要はない」とねぎらいの言葉をかけられ、機嫌を直した三成は「天運のしからしむところ。早く首を落とせ」と語った。これを聞いた家康は「大将としての器量である」とたたえたとされる。

    據說,三成被押到大本營門外示眾時,大戰中倒戈攻擊己方的西軍小早川秀秋還跑去看熱鬧。於是,三成直面秀秋痛斥道:「背信棄義,賣友求榮,實乃武將之恥,必遺臭萬年。」罵得秀秋啞口無言,訕然離去。
    なお、三成は本陣の門外にさらされたが、合戦中に味方へ攻めかかった西軍の小早川秀秋は、興味本意でそれを見に行ったという。すると三成は秀秋に向かい、「約束を違えて義を捨て、人を欺いて裏切ったことは武将の恥辱、末の世まで語り伝えて笑うべきだ」とののしったので、秀秋は返す言葉もなく、すごすごと去って行ったと伝えられる。

    後來,三成與同為俘虜的安國寺惠瓊、小西行長一起被押送輾轉大坂和堺,929日,被京都所司代奧平信昌收押。接著,101日,3人還坐著肩輿在京都城內遊街示眾,但三成依舊面色如常。
    三成はその後、同じく捕虜となった安国寺恵瓊、小西行長と共に大坂や堺を引き回され、929日、京都所司代の奥平信昌に預けられた。そして101日、肩輿に乗せられて京都市中を引き回されたが、三成の顔色は平生と変わるところがなかったという。

    被押運到六條河原的三成,在去往刑場的路上,大概是口渴了,於是向押送人討要熱水喝。有人告訴他:「我有柿餅,吃這個吧。」三成斷然拒絕道:「柿餅易生痰。」押送人聞言大笑:「都是要被砍頭的人,還計較這些嗎?」
    いよいよ、六条河原に引き出された三成は刑場に向かう道すがら、喉が渇いたのか警備の者に湯を所望した。男が「ここに干し柿がある。これを食べよ」と伝えたところ、三成は「これは痰(たん)の毒である」と断った。これを聞いた警備の者は「これから首を切られる人間が何を言う」と大笑いした。

    於是,三成回答道:「對你這樣的人這話或許在理,但胸懷大義之人,只要身首尚未分離,就要珍惜性命,遵從本心而動。」
    すると三成は、「おまえのような者には道理かもしれないが、大義を思う者はたとえ首をはねられる瞬間まで命を大切にして本意を遂げようと考えるものなのだ」と言ったのである。

    如果這是史實,那確實可以說三成內核穩定得驚人,但這實際上是後世編纂資料裡的故事,很難認定就是事實。享年41歲。三成的首級被掛在三條大橋上示眾,之後大德寺高僧春屋宗園申請收斂,獲得許可。負責收斂屍首的人,是之後有名的高僧澤庵和尚。據傳被埋葬在大德寺三玄院。
    これが史実なら、驚くべき精神力の持ち主といえるが、後世の編纂資料に載る話なので、事実とは思われない。享年41。三成の首は三条大橋にさらされたが、その後、大徳寺の高僧.春屋宗園が引き取りを願い、許可された。受け取りには、のちに高僧として知られる沢庵が出向き、大徳寺三玄院に埋葬されたと伝えられる。

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    大德寺三玄院因石田三成墓所在而聞名。一般不對外開放,雖然今年2月,時隔半個世紀對外開放,但三成墓並未對外開放(PIXTA
    石田三成の墓所がある寺として知られる大徳寺三玄院。通常は非公開で、今年2月に約半世紀ぶりに一般公開されたが、三成の墓は公開されなかった/PIXTA

    家康為封賞外樣大名而煞費苦心|外様大名の処遇に腐心した家康

    站隊西軍的大名中,被處刑的只有三成、小西行長、安國寺惠瓊。如果算上自我了斷的,也就10人左右。話雖如此,對於沒在事前許諾反水的藩國,原則上是抄家或大幅減封。
    西軍に加担した大名のうち、処刑されたのはこの三成と、小西行長、安国寺恵瓊ぐらいだった。自刃を含めても10名程度に過ぎない。とはいえ、事前に寝返りを約束していなかった藩は、原則、お家取り潰しか大幅な減封となった。

    被抄家貶為平民的有88家之多。雖然也有免遭抄家之禍,僅減封了事的,但西軍總大將毛利輝元的領國從8個藩國被削至2國,上杉景勝從會津120萬石降為30石。家康從敵將手裡拿走的食祿高達630萬石(戰國大名總食祿的1/3)。
    改易された数は、なんと88家。減封で済んだものの、西軍の総大将である毛利輝元は8カ国をわずか2カ国に減らされ、上杉景勝は会津120万石から米沢30万石に減らされてしまった。家康が敵将から取り上げた石高は、630万石(総石高の3分の1)に上った。

    此外,對於雖未參與關原之戰,但卻作壁上觀的常陸領主佐竹義宣,家康將其封地遷至秋田。最終,佐竹家的俸祿降至原來的1/3
    また、関ヶ原の戦いに参戦しなかったが、日和見的な態度をとった常陸の佐竹義宣に対しては、秋田への転封が命じられた。結果、佐竹氏の石高は3分の1に減ってしまった。

    德川家戰後領地從原來的250萬石左右,擴大到400萬石。此前豐臣家掌握的城市和礦山也盡數落入家康之手。不過,這並不意味著家康已掌握天下。事實上,從這時到家康成為征夷大將軍,開闢江戶幕府,還花費了兩年半的時間,這就是最好的證據。
    徳川家は戦後、約250万石から400万石へと領地を拡大。豊臣家が握っていた都市や鉱山も手に入れた。ただ、これで家康が天下を掌握できたわけではなかった。実際、征夷大将軍となって江戸に幕府を開くまで2年半を要しているのがその証拠だ。

    這是因為如上文所述,德川秀忠率領的德川軍主力未能及時趕上關原之戰,結果就造成豐臣秀吉一手提拔的「外樣大名」獨佔了軍功。
    それは、前回述べたように、徳川秀忠率いる徳川主力軍が関ヶ原合戦に間に合わず、結果として豊臣恩顧の外様大名が軍功を独り占めにしたためだ。】

    家康別無選擇,只能給福島正則、黑田長政、山內一豐、小早川秀秋、最上義光這些站隊己方的外樣大名增加了1倍領地。
    仕方なく家康は、福島正則、黒田長政、山内一豊、小早川秀秋、最上義光といった自分に味方した外様たちの領地を倍増せざるを得なかった。】

    例如,藤堂高虎從伊予板島8萬石增至伊予今治約22.1萬石,掛川城主山內一豐從5萬石成為擁有藩國土佐國(20萬石)的「國持大名」。福島正則從尾張國29萬石,接受增封芸備二國49.8萬石。豐前國中津18萬石的黑田長政,一躍成為筑前國52萬石大名。
    例えば、藤堂高虎は伊予板島8万石から伊予今治22950石、掛川城主の山内一豊は5万石から土佐一国(20万石)の国持(くにもち)大名に。福島正則は、尾張国29万石から芸備二国498000石へと大加増を受けた。豊前国中津18万石の黒田長政は、一気に筑前一国52万石に加増されている。

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    福島正則像。雖是秀吉視同子嗣撫養的大名,卻在秀吉死後率先站隊家康,在關原之戰中也擔任先鋒(栗原信充畫,江戶時代後期,國立國會圖書館數字館藏)
    福島正則像。秀吉子飼いの大名ながら、秀吉の死後、いち早く家康方につき、関ヶ原の戦いでは先鋒を務めた(栗原信充.画、江戸時代後期)国立国会図書館デジタルコレクション】

    不過,家康也借增封之機,將許多外樣大名都踢去九州、四國等西國邊陲之地,讓他們遠離德川大本營關東和大坂京都這類重要城市。這也大概是為了穩固政權吧。此外,他在西國還安排了譜代小藩和幕領(天領,即直隸領地),為牽制豐臣秀賴,還將女婿池田輝政放在姬路。
    しかし家康はこの加増を機に、外様大名たちの多くを九州や四国など西国の遠地に配置し、徳川の拠点である関東、大坂や京都といった重要都市から遠ざけている。政権の安泰を図ろうとしたのだろう。また、西国には譜代の小藩や幕領(天領)を配置したり、豊臣秀頼の押さえとして娘婿の池田輝政を姫路に配置した。】

    池田輝政在關原與南宮山的敵軍對峙,並未參與主戰場,但論功行賞時,他從三河國吉田15.2萬石,增封至掌管播磨一國52.1萬石的大名,領地一舉擴大3倍多。輝政的弟弟長吉也獲封6萬石,成為鳥取城主。
    関ヶ原で南宮山の敵と対峙していた池田輝政は本戦での出番はなかったが、論功行賞で三河国吉田152000石から播磨一国521000石へと一挙に領地は3倍以上に加増された。輝政の弟.長吉も6万石を与えられ、鳥取城主となった。

    池田家也是德川家姻親,所以,輝政的次子忠繼(家康外孫)也受封備前國(28萬石),之後三子忠雄獲封淡路國6.3萬石。忠繼、忠雄均年幼,所以實質上這3國都由輝政掌控。
    池田家は徳川の親族ということもあり、輝政の次男忠継(家康の孫)にも備前一国(28万石)が与えられ、のちに三男忠雄にも淡路国63000石が付与された。忠継も忠雄もまだ幼年だったため、実質的には三国は輝政の支配するところとなった。

    順便一提,對於關原之戰遲到的秀中,家康勃然大怒,有一段時間都沒有召見他,但召開重臣會議,重選繼承人的傳聞,近些年被認為不是事實。確實,如果真這麼做了,那就是完全不給秀忠面子了。
    ちなみに関ヶ原合戦に遅参した秀忠に対し、腹を立てた家康はしばらく会わなかったが、重臣会議を開いて後継者に再選定したという逸話は、近年、事実ではないといわれている。確かにそんなことをしたら秀忠の面目は丸つぶれであろう。】

    以上,對於關原之戰,我分了3次講述。正如大家所說的,既然是一戰定天下的大戰,許多大名都覺得至少也得打幾個月吧。大概誰也沒料到短短幾個小時就分出勝負。這種不按劇本展開的結果,最為吃驚的大概還是家康本人吧!
    以上、関ヶ原の戦いについて3回にわたって述べてきた。よく言われているように、まさしく天下分け目の合戦であったわけだが、多くの大名たちは少なくても数カ月間は戦いが続くと思っていたようだ。まさかあっけなく数時間で勝敗が決まってしまうとは考えていなかったはず。そんな番狂わせな結果に一番驚いたのは、家康自身ではなかったろうか。】

    參考文獻

    ·『秀吉は「家康政権」を遺言していた』(《秀吉遺言稱「家康政權」》)(高橋陽介.著,河出書房新社)
    ·『新視点 関ヶ原合戦 天下分け目の合戦の通説を覆す』(《新視點關原之戰 顛覆關於定天下之戰的傳統觀念》)(白峰旬.著、平凡社)
    ·『徳川家康の決断 桶狭間から関ヶ原、大坂の陣までの10の選択』(《秀吉遺言稱「家康政權」》)(本多隆成.著、中公新書)
    ·『人物叢書 徳川家康』(藤井讓治.著、吉川弘文館)

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